暴動
1987年3月26日に大阪城ホールで開催された「INOKI闘魂LIVE」のメインイベントのアントニオ猪木vsマサ斎藤戦に乱入、斎藤に手錠をかけて連れ去り、試合が中断、収拾がつかなくなり、猪木の反則勝ちで終えた。
それに怒った約3000人のファンが、椅子を投げたり、会場に火をつけたりして、警察や消防車、救急車が出動する事態になった。
新日本は翌27日に大阪府東警察署から厳重注意を受けた。
海賊男誕生
1980年代初頭、異種格闘技戦による猪木の人気、タイガーマスクの活躍等で、新日本プロレスは黄金期を迎え、テレビ中継もキラーコンテンツとしての地位を確立していた。
しかしタイガーマスクの引退、維新軍団の離脱などのアクシデントが相次ぎ、80年代半ばには大きく視聴率を落としていた。
これに対してマシーン軍団の結成、ブルーザー・ブロディの全日本プロレスからの引き抜き等のてこ入れを行った。これらは一時的なカンフル剤になったものの長期的な人気の下降傾向に歯止めをかけることはできなかった。
1986年の下期になると、テレビ中継番組「ワールドプロレスリング」は、金曜20時から月曜20時に放送時間を移動、ゴールデンタイムからの撤退も囁かれるようになった。
そこで新たなテコ入れ策として生まれたアングルが、「海賊男」であった。発案は猪木自身であり、フロリダ遠征時にカーニバルで目撃した海賊のキャラクターに触発されたらしい。
暴動に至るまで
ミスター高橋が後日明らかにしたところによれば、前述の1987年3月の暴動の原因となった乱入については、本来ならば猪木にのみ手錠をかけてロープに拘束したうえで、マサ斎藤とともに猪木を襲撃するというアングルであったが、海賊男の正体であったブラック・キャットにうまく意図が伝わらず、誤って斎藤に手錠をかけてしまったことで当初のアングルが崩れて混乱が起きて、暴動に発展したという話だ。