1975年11月6日、その事件は高知県安芸市を舞台にして起こった。その付近は浜辺に面して小さな集落があった。海岸沿いに国道が走っており、国道と浜辺とに挟まれて狭い場所では10軒ほどの農家がハウス園芸を営んでいたという、のどかな場所であった。
同日、ラジオは午後から暴風雨の注意報を流していた。南へ30キロの室戸岬から土佐湾は大荒れになっていた。
その時、その場所に、31歳の男が在った。その男は、この浜辺で生まれ育ったが、変り者であり、生家の離れで爪楊枝を作って細々と生活していた。この男は「楊枝製造業者」と呼ばれていたらしく、その男が仕事にしていたのは、爪楊枝の製造であった。それは男の母親が営林署からもらってくる木片を手作業で削って爪楊枝を製造するという仕事であった。手作りの楊枝だから高級料亭などでは重宝されたが、それで得られる手間賃はたかが知れていた。
その爪楊枝製造業の男は、暴風雨が来るという今夜こそが決行のチャンスだと考えていた。31歳になった頃から、この男は在る計画を立てていた。1975年2月に通信販売で四連発式猟銃を購入。同年9月には高知市内の銃砲店で散弾75発を購入し、隣接する芸西村にるクレー射撃場で25発を撃ち、残りの50発を手元に残していた。この男が考えていたのは大量殺人記録を塗り替える事であり、つまり、有名な「津山三十人殺し」の都井睦雄の記録を塗り替える事であった。目標は「50人殺し」であり、そうであるが故に散弾50発を手元に残していたのだ。
そして暴風雨となった、この日は決行の好機であった。暴風雨の夜であれば銃声が集落に響くことはなく、また、硝煙が漂う心配もない。
暴風雨が接近した20時40分頃、男は猟銃を持って戸外へと出た。男が住んでいたのは離れであり、母屋には実父と養母が住んでいたが、母屋を襲撃することなく、隣家へと向かった。
隣家の雨戸を蹴破るようにして乱入、最初の襲撃を行なった。散弾銃は接近して発砲しないと人は殺せないので、相応の距離で発砲したものと思われる。この家では立て続けに2発ほど発砲し、この家の51歳の夫と52歳の妻を殺害した。この家の主人は営林署の職員であった。
次の襲撃先には、若い会社員宅であった。その夫婦の間には4歳の長女が居たが、ここでも容赦なく連続して発砲。この2軒目にて、27歳の会社員の妻と、4歳の長女を殺害。30歳の夫は胸に銃弾を浴びて重傷。
三軒目の襲撃先は中学校長宅であったが、ここでも夫婦を連続撃ちにした。46歳の校長を殺害、その校長の妻を負傷させた。
四軒目の襲撃先では、58歳の妻に発砲して殺害したが、67歳の夫からは抵抗に遭い、猟銃をもぎ取られた。猟銃を奪い取られた男は、山へ向かって暴風雨の中、逃亡した。
暴風雨の中に襲撃に遭った家は、どの家も血の海のような有様であったという。
翌7日の昼前、山に逃げ込んだ男を捜索する為に山狩りをしていた消防団員によって男が発見された。男は山の中の木で首吊り自殺を図るも死ねなかったらしく、発見された男は「早く警察を呼んでくれ」と言った。この際、消防団員から「何でやったんぜよ」と問い掛けられたが、男はニタニタと薄笑いするばかりで答えはなかったという。そして通報を受けて駆け付けた刑事らによって31歳の猟銃男は逮捕された――。
当初、男は警察の取調室で
「最近、気分がモヤモヤして、人を殺してみたかった。相手は誰でもよかった。死んだ人には、何の恨みもない」
と語っていた。しかし、取調べが本格化してゆくと、言動が変化した。
「ずっと以前から、地区の人が自分に笑顔を見せてくれず、冷たい仕打ちを受けていた。人々の背後には何か巨大な力が働いており、他の町へ逃げても迫害は続いただろう。殺す以上は50人が目標であったが、途中で銃を奪われて果たせなかった」
と計画的犯行だった事を認めたという。