平安時代末期の治承4年(1180)4月、平家の台頭により朝廷が掌握された事に疑問を呈した後白河天皇の第3皇子である高倉以仁王は「以仁王の令旨」を発布し全国に平家打倒を呼びかけました。
自らも挙兵の為に準備を進めていましたが、計画が露呈した為、兵が整う前に平家から追討され宇治川の戦いで敗北した事で以仁王は討ち取られたとされます。
しかし、以仁王の顔を知る人が居らず、結局生死を確認出来なかったとされ、それが原因で特に東日本で以仁王逃避伝説が生まれ、平家も無視できなかったそうです。
伝承によると以仁王は密かに戦場を脱出、木曽路を北上して木曽谷のどこかに身を隠したとされます。
その話を聞いた以仁王の娘の姫君は幼少の弟と共に父親の後を追い木曽路を歩き訪ねてきました。
しかし、少女と子供の足、遂に寝覚の床辺りで平家の追手が近づいて来るのが感じられるまで追い詰められました。
姫君は木曽路から離れ島の麻畑に隠れましたが、地主は平家に問い詰められるのを避け、姫君を畑から追い出しました。
姫君は最中の麻畑に隠れると、地主は見て見ぬふりをし、娘達に田植歌を歌わせ追手の目を逸らさせました。
御蔭で姫君は追手をやり過ごす事が出来ました。
姫君はさらに西を目指し、高倉峠を越えたものの、そこに現れた淵は体力的に越す事が出来ないと悟り、少し体を休めた後、里で覚えた田植えの真似をしながら田植歌を歌い、その声に導かれた追手が迫ると淵に身を投げました。
それから暫くすると、淵の廻りに姫君と思われる少女の霊が出没するようになった。
哀れに思った里人は祠(現在の姫宮神社)を設けて姫君の霊を慰め、身を投げた淵は姫淵と呼ばれるようになったという。