武藏野鉄道線列車正面衝突事故
1940年(昭和15年)1月2日午後2時20分頃に武蔵野鉄道武蔵野線(現・西武池袋線)秋津駅 - 所沢駅間で、下り電車と上り貨物電車が見通しの悪い急カーブ地点で正面衝突。相互は60km/hほどで走行しており、衝突の衝撃により貨物電車の機関車は電車の前部を粉砕、後部車両は激突の反動で200mほど逆行してようやく停止。貨車4両も破壊された。死者11人、重傷者7人、軽傷者62人。乗客の中に所沢警察署の署長が乗車しており、直ちに招集が掛けられ救助活動が行われた。事故原因は貨物電車が単線区間にも関わらず、タブレットを持たずに勝手な判断で出発していたことが明らかにされている。また、後日、検事による尋問で、貨物電車の乗務員3人が飯能駅を出発後、各駅で停車をするごとに正月の祝杯を呷り、所沢に着く頃には相当酔っていたことも判明した。その後、武蔵野鉄道は所沢駅の駅員がタブレットを渡すことを忘れていたことも事故の原因の一つであり、責任は両社で折半して負担すべきであるとして所沢駅を管理していた旧西武鉄道(現・西武新宿線)に損害賠償訴訟を行った。こうした流れからライバルである旧西武鉄道の所沢駅職員が意図的に信号を操作し、武蔵野鉄道の運行を妨害したのではという憶測が流れた。所沢駅では以前から乗客の取り合いで両社の駅員が殴り合いのけんかをしたこともあったほどで、この事故と訴訟を契機に堤康次郎による武蔵野鉄道と旧西武鉄道の合併(現・西武鉄道)への流れとなったと言われている。