電車とバスが衝突し、バスの乗員、乗客15名中13名が亡くなった事故現場。
1950年(昭和25年)12月18日、大宮市土呂町(現さいたま市北区土呂町)の原市街道(大宮菖蒲線)にあった東北線の踏切での話。
大宮駅東口を出発した東武中型バスは、上尾の原市町に向かう途中この踏切に差し掛かった。バスは遅れており、運転手はだいぶ焦っていたようだ。しかし、そういう時に限って踏切に列車が向かって来る。ところがこの時、踏切番(※注)がもたついており、列車が来ているのにまだ遮断機を下ろしていなかったのだ。
運転手は遮断機が下りきっていないことをいいことに踏切に進入。そこへ郡山発上野行きの122列車が衝突した。当時、土呂駅、東大宮駅はなく列車は時速80キロでバスに衝突したため、バスは200メートルほど列車に引きずられた。
この事故でバスの運転手と車掌が死亡。乗客も13名中2名しか生存者を残さない大惨事となった。(列車の乗員と乗客にけが人なし)
その後、新しく県道35号線(産業道路)が開通し、原市街道は産業道路の裏道くらいにしか思われなくなり、事故を知る人も少なくなった。さらに昭和40年代に陸橋が作られ、踏切も消えてしまった。
しかし事故から70年近く経つ現在でも、陸橋近くの線路内で着物姿の老婆を見たという話や原市街道を走る「幽霊バス」の噂もある。幽霊バスとは、見た目が古臭いボンネットバスで、よく見ると運転手も乗客もいないのにバスだけが走っている。そして突如フッと消えるのだという。
※注 自動警報機が普及する以前、列車の通過時に手動でハンドルを回し、遮断機の昇降をしていた人員。踏切警手とも。
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