徳島県、深い山間に挟まれた村に、ひとつの古い木橋があった。
その橋のたもとには、縁を結ぶ神『ツワナギ』を祀った祠があった。
村人たちは大切な願いや、失われかけた縁を取り戻したいとき、その橋に白い布を結び、祠に祈りを捧げたという。
特に春の彼岸には、橋の欄干に短冊や布を結び、静かな祈りが風に揺れた。
だがある夏の夜、その橋と祠が何者かによって火をつけられ、すべて灰になった。
ぱち、ぱち、と音を立てて燃え尽きる橋を前に、村人は誰も声が出なかったという。
犯人は結局見つからず、月日だけが無為に流れていった。
その火事の夜、ひとりの母親が、失踪した子どもの無事を願って祠に布を結んでいた。
だが、その願いも橋と共に燃え尽き、宙ぶらりんになったまま……。
火事からほどなく、村で奇妙な出来事が起き始めた。
婚礼が間近だった若い男女が、突然理由もなく破談になったり、久々に会った親戚が一言も言葉を交わさず不自然に帰ってしまったり。
村人たちは不安な顔で囁きあった。
「縁が、狂っている……」
それから間もなく、『橋渡しごっこ』という奇妙な遊びが村の子どもたちの間で流行った。
焼け跡に集まり、ひとりの子どもを囲むと、ぐるぐる回りながらこう囁く。
「ツワナギ様ツワナギ様、誰を選ぶの、次は誰を連れていくの──?」
その囁きは次第に異様なほど熱を帯び、子どもたちの瞳はうつろになり、止める大人の声すら耳に入らなくなっていた。
ある夜、その中心にいた子どもが、突然笑い出した。
「選ばれた……僕が、橋になるんだって……」
そして、とうとうひとりの子どもが姿を消した。
村人総出で捜索が始まったが、どこにも見当たらない。
暗くなり、手探りで山を探す村人たちの耳に、夜風に乗って子どもの微かな声が届いた。
「ツワナギ様ツワナギ様ツワナギ様ツワナギ様ツワナギ様ツワナギ様──」
それは祈りとも呪詛ともつかぬ、底知れぬ恐怖を帯びていた。
数日後、子どもは何事もなかったように家へ戻ってきた。
だが、母親はすぐに気づいた。
その子の瞳には、かつての息子の面影はなかった。目は焦点を結ばず、頬は青白く、生きた人形のようだった。
「ツワナギ様は選んだんだよ。僕を、橋の代わりに」
深夜になると、その子はひとりベッドの上に座り込み、壁に向かって繰り返し呟いた。
「ツワナギ様ツワナギ様ツワナギ様ツワナギ様ツワナギ様ツワナギ様……」
それを聞く家族の背筋には冷たいものが流れ、次第にその家を訪ねる者もなくなった。
やがて、またひとり子どもが消えた。
村人は半狂乱になり再び捜索し、橋の焼け跡を調べていると、祠があった場所に白い布に包まれた不気味な塊を見つけた。
布をほどくと、中には何も入っていなかったが、布の裏側には子どもたちの名前が赤黒い文字でびっしりと記されていた。
「これが、代償だよ」
誰かが呟いたその瞬間、ひゅう、と耳元で息を吐くような風が流れた。
村人たちは恐怖に震え、誰ひとり口を開こうとはしなかった。
その翌朝、祠の跡に白い布が三枚、風に揺れていたという。そこに名前が書かれていたのは、まだ生きている村の子どもたちのものだった。
その家族たちは言葉もなく荷をまとめ、村を出ていった。
残されたのは、風に揺れる布と、橋のない川の音だけだった。
それ以来、村の誰もが橋の跡に近づくのを恐れ、『ツワナギ』という名も祠のことも記憶から消そうとした。
だが、夜が訪れるたび、遠くから子どもの囁きが聞こえるという。
「つないで……つないで……橋がないと帰れない……」
『ツワナギの神は、焼かれた祈りの代償を求めている。叶わなかった縁が怒り、成り代わる者を選び続けている。その呪縛を断ち切る術はもう、どこにもない』