東京プロレスが出来るまで
社長であった力道山死後の日本プロレスは、社長に就任した豊登を中心に、芳の里淳三・遠藤幸吉・吉村道明の4人を中心としたいわゆる「トロイカ体制」を組む形で難局を乗り切る中で、豊登がエースであったものの、その豊登を凌ぐ存在としてジャイアント馬場が台頭した。
そのような中で、日プロは1965年11月24日に行われた役員会で、豊登の社長解任を決議して1966年1月5日、社長辞任が正式に発表された[。この時点では、表向きは持病だった尿管結石の悪化で辞任という形で発表されたが、3月21日に正式な解任理由が後任の社長に就任していた芳の里から発表され、解任理由は「豊登の不透明な公金流用」で、1965年11月から欠場していた理由は「会社の資金を横領し、競馬・競輪などのギャンブルに流用していたことが発覚したため」であり、実際には謹慎処分にしていたと公表した。その負債額は(当時の額で)2千万とも、4千万円ともと言われていた。
当時の日本最大のプロレス団体「日本プロレス」を追放された形となった豊登は、新間信雄・寿父子に接触して新団体を旗揚げする意向を表明。豊登には日プロから数百万円の退職金が発生していたが、ギャンブルに全て使ってしまって金が無かったため、渋谷の連れ込み宿での旗揚げ表明をした。
豊登の新団体旗揚げ表明を受けて、日プロから田中忠治・木村政雄・斎藤昌典・北沢幹之が離脱して新団体に参加することとなり、2月に静岡県伊東市で合宿を開始した。豊登が参加メンバーとして想定していた芳の里・大木金太郎・ヒロ・マツダ・星野勘太郎・高千穂明久らは日プロに留まったため、手薄な選手層であることは明白であった。
そこで豊登は、新団体の目玉として弟分的な存在であったアントニオ猪木を引き抜いた。
東京プロレス旗揚げ戦から事件が起きるまで
看板選手である猪木を含め、選手をある程度確保できたことで、1966年8月に旗揚げ戦を蔵前国技館で開催することを発表した。しかし、この情報を聞きつけた日プロは、豊登による新団体を短期間で崩壊させるべく妨害工作を開始し、日本テレビに対し、当時は使用料が蔵前国技館より高額だった日本武道館における興行を打診したと同時に、日本プロレスも日本武道館大会の目玉にすべく、フリッツ・フォン・エリックの招聘交渉を開始した。
1966年10月12日、蔵前国技館にて「東京プロレス」(会社名は「東京プロレスリング興業」)の旗揚げ戦が行われ、9千人の観衆を集めた。猪木対ジョニー・バレンタインとの一騎討ちがメインイベントとしてマッチメイクされ、猪木が勝利。アメリカ修行の成果をアピールする形となった。
華々しいスタートとは裏腹に、有力な興行基盤を持たない東京プロレスは早々に経営が悪化する形となった。東京プロレスの旗揚げと同時に設立された、同団体専門の興行会社『オリエント・プロモーション』を中心に営業活動を行っていたが、地方での営業面では日プロに圧倒されており、全34戦を予定していた東北地方を中心とした旗揚げシリーズはキャンセルが相次ぎ、たった20戦しか行われなかった。また、有力な資金源であるテレビ局とも契約出来なかった。
当初、経営陣は毎日放送にテレビ中継の話を持ち込み、現場・編成サイドでは一旦合意したが、当時の社長だった高橋信三の反対により立ち消えになった。
このような最悪の経営状況の中でも、豊登は相変わらず資金を横領の上、ギャンブルに私的に流用し、東京プロレスリング興業は事実上豊登の個人会社状態となっていた。猪木の発言によるとこの時点で「ギャンブルによる借金は5千万円近くあり、事実上東京プロレスの負債に回された」と証言しており、また、当時若手選手であった永源遙も「(いくら現在と貨幣価値が違うとは言え)公務員が月給2万円を越えていた時代に年俸1万円だった」と後に述懐している。旗揚げ後は選手の合宿所も設置されたが、食費は会社持ちではあるもののその米代にも窮していたと言われている。興行収益の無さや豊登による公金の私的流用も相まって窮乏する悪いムードの中、東京プロレスにとって致命的とも言える板橋事件が発生した。
板橋事件
東北での旗揚げシリーズが惨敗に終わった中、帰京して行われた同年10月26日の板橋区志村高校脇広場大会では4千人の観衆を集めたが、そのわずか1か月後の11月26日、同じ板橋区内の元都電板橋駅前広場大会をプランニングした。これは、前回の板橋大会で得た収益が過去の赤字の補填に費やされたことで、無理に興行日程に組み入れたとも言われている。しかし、寒い11月の野外の試合でもあり、1か月前に近隣で興行していたこともあり観客が集まらなかった。
試合開始前、突然大会の中止が集まった観客に告げられた。長く待たされた挙句に何の説明もなく突然の中止を告げられたことで観衆は激怒し、リングを破壊した上に放火する事態となり、この暴動を収拾するために警官隊が多数動員されて鎮圧された。これが世に言われる「板橋事件」だ。
大会中止の噂
ギャラを支払わない東京プロレスに対して外国人選手達が出場をボイコットした説、観客の数が余りに少なく豊登が「これじゃやるだけ無駄だ」と勝手に判断して引き揚げたという説、「オリエント・プロモーション」が猪木らに約束していた未払い金を支払わなかったために引き揚げたという説があった。
東京プロレス崩壊
1966年11月27日、日プロが招聘していたフリッツ・フォン・エリックが来日し、東京国際空港で行われた記者会見で、当時プロレス&ボクシングの編集長だった竹内宏介の質問に対し、エリックは「ジョニー・バレンタインのUSヘビー級王座は偽物だ」と回答して東京プロレスを牽制した。日プロは12月3日に日本武道館大会を開催し(馬場VSフリッツのインターナショナル・ヘビー級王座戦とアジアタッグ王座決定戦)、当日券は完売し14,500人の観客動員を記録するなどして興行自体は成功に終わった。
一方の東京プロレスは、12月14日から再び地方シリーズを強行しながらも興行的に惨敗し、年内最終戦となった12月19日の東京体育館大会(メインは猪木VSスタン・スタージャックのUSヘビー級王座戦)も主催者発表で2,500人(実数は1,000人以下)に終わり、東京体育館大会が東京プロレスとして最後の興行となった。
シリーズ終了後に猪木は豊登との決別を選択。資金難の中でも依然として公金横領、ギャンブルへの流用を止めない豊登の無責任極まりない行動に対しての決断であった。猪木らは極秘裏に、当時新宿にあった事務所から必要な荷物を新たに用意した北青山の事務所へ移し、豊登派とは別に新会社「東京プロレス株式会社」を設立した。猪木はほぼ同時期に日プロから独立して設立された国際プロレスとの業務提携に向けて、社長の吉原功、ヒロ・マツダ(マツダと猪木はアメリカで面識があった)と連絡を取り合っていた。
明けて1967年、猪木は斎藤、木村らとともに国際プロレスとの合同興行との形で行われた「パイオニア・シリーズ」(旗揚げ興行)に参加したが、この興行に(ポスターやパンフレットに掲載されていた)豊登と田中忠治は参加していない。
猪木は、合同興行の最中である1月8日に豊登と新間父子を「3千万円の業務上背任横領容疑」で告訴。この行動に激怒した豊登らは1月9日には猪木を「背任容疑」で逆告訴するなど、泥仕合へと発展する。国際プロレスとの業務提携も1月末には打ち切られ、これにより東京プロレスは崩壊した。