お綱門とは福岡城の二の丸にあった門で、この場所には浅野四郎左衛門の妻、「お綱」にまつわる恐ろしい祟りの話が残されている。
江戸時代の寛永年間(1624年~1645年)、福岡藩主の黒田忠之は参勤交代の帰りに大阪で遊び、一人の美しい芸者を連れて帰って来た。しかし、藩主が芸者を屋敷に住まわせるのは問題と家老に諫められ、仕方なく芸者を家来の浅野四郎左衛門の側室にするよう下げ渡した。
四郎左衛門には妻のお綱と2人の子どもがいたが、四郎左衛門は芸者の美しさに心を奪われ次第に家庭を顧(かえり)みなくなる。お綱は子どもと奉公人を連れて下屋敷に移ったが、夫からの仕送りもなくなり、生活は困窮していった。
寛永7年の3月、ひな祭りも近づいているというのに、娘にあげるものが何もない。お綱は奉公人を夫のいる屋敷に向かわせ、何とか援助をしてくれるように頼んだ。しかし四郎左衛門の態度は冷たく、にべもなく奉公人を追い返す始末。奉公人はお綱に申し訳ないと思い自害してしまう。
ここでお綱の堪忍袋の緒が切れた。まず2人の子どもを手にかけて、夫の四郎左衛門を殺す覚悟を固めた。そして白装束を身にまとい、薙刀(なぎなた)を手に持ち、2人の子どもの首を腰に下げて夫のいる屋敷へ向かった。ところがこの時、四郎左衛門は登城していて屋敷には不在。逆にお綱は屋敷に寄宿していた明石彦五郎に斬られて深手を負ってしまう。
お綱は深手を負いながらも四郎左衛門のいる城に向かった。どうにか二の丸の門にまで来るも、門に手をかけてお綱は絶命したという。その直後から四郎左衛門は熱病におかされ、約1年後の寛永8年2月19日に病死。
この事件以降、二の丸の門は「お綱門」と呼ばれるようになった。また「せめて四郎左衛門に一太刀浴びせたい!」というお綱の強烈な怨念が門に宿ったのか、お綱門に触ると熱病におかされ、夜にうなされるとも言われた。
明治維新後に福岡城が解体されると、お綱門は浅野家本宅があった長宮院に移されるが、残念ながら空襲で焼けてしまい、現在跡地には福岡家庭裁判所が建っている。しかしお綱と子供たちが住んでいた馬出の下屋敷の跡地には、現在もお綱母子の墓があり、今だに線香があげられているという。
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