時は秀吉が天下制覇を企てていた、天正13年8月。
飛騨を治めていた三木自綱は、秀吉の命をうけた金森長近に攻められ、籠っていた飛騨高堂の城から京へ落ちのびて行った。
自綱の嫡子秀綱は松倉城を守っていたがここも落城、奥方を伴って落ちのびて行った。
落ち行く先は高原郷今見村。
途中で奥方と別れ、それぞれ別に落ちのび信州で落ちあうことにしたと語り継がれている。
しかし秀綱は途中、村人の落ち武者狩りに遭い、無念にも命を落とす。
一方、信州島島谷の奥で何人かの杣(そま/樵・きこり)が働いていると、徳本峠の方からひとりの美しい女房がきらびやかな身なりでよろけながら出てきた。
驚いた樵達は、「これは魔性のものに違いない」と美しい着物や持ち物を奪い、梨の木に縛り付けた。
女房は助けてくれるよう頼んだが樵達は相手にせず、家に帰った。
着物も持ち物もそのうち木の葉に変わるだろう。
ところが着物も持ち物も、翌日になっても何も変わらない。
不思議に思って昨日の梨の木の所に行くと、女房はまだそのままの姿で縛られており、彼らを見てニタニタと笑ったかと思うとたちまち息絶えた。
樵達はぞっとし、一目散に家に逃げ帰って寝込んでしまった。
やがて彼らは業病にとりつかれて死に、その病はその家に代々続いた。
恐ろしくなって、女房から奪い取った物をどうにか処分したいが捨てることもならず、捨てても祟りを逃れられるとも思えず、ひたすら他聞を憚りながらこっそり持ち続けた。
昭和になって秀綱神社を建立し、めいめい夜分密かにそこに置いてくることになった。
ここに出てくる「秀綱神社」とは「島々神社」を指すようだ。「秀綱神社」は焼岳の岐阜県側からの登山口近くにも有るが、それとは違う。
夫人の持ち物は島々神社に祀られていたものが現在は道の駅風穴の里の東にある安曇資料館にあり、秀綱の夫人のものだと鑑定されている。