帝京大学高校は帝京商業及び帝京商工時に3度も甲子園に出場できる成績を地方大会で収めていながら出場が叶わなかった悲運の歴史がある。
1度目
1939年(昭和14年)夏は東京大会で優勝しながら出場辞退(代替出場は早稲田実業。表向きの理由は「選手の故障のため」としていたが、実際は「帝京商業ベンチに出場資格のない選手(当時1年生の杉下茂)がいる」との指摘があったためだと言われている。
2度目
1941年(昭和16年)夏も東京大会で優勝したが第二次世界大戦により甲子園大会が中止になった。
3度目
1970年(昭和45年)春は前年秋の東京大会で準優勝したが、学校の火災により高野連提出書類を焼失したことから戦力分析が不可能との理由で、出場校に選出されなかった。