事件の詳細は今なお明らかではないが、「行商団一行の話す方言(讃岐弁)が千葉県の人には聞き慣れず、ほとんど理解できなかった」「千葉県の人との意思疎通の際に話す標準語も発音に訛りがあり、流暢でなかった」などを理由に朝鮮人とみなされ、一連の事件が起こったとの証言がある。当時22歳で生き残った行商団員が残した手記や、当時14歳の行商団員の証言でも、地元の船頭との言い争いの中で「どうもお前の言葉は変だ、朝鮮人と違うのか」と言われて自警団が集まってきたとされる。
背景として、日本統治時代の朝鮮では朝鮮独立運動が勃興しており、本事件の4年前の1919年(大正8年)に起きた三・一運動では、デモが朝鮮全土に広がり、鎮圧に軍が出動している。内地では歪曲報道され、放火、略奪、虐殺を繰り返す集団を一般的な政治犯とはせず、「土匪・匪賊」と呼んでいたことから、朝鮮人は日本の言うことを聞かない「不逞の輩」として、日本全土で官民による差別や弾圧が強まっていたことが挙げられる[。太平洋戦争後、法務府が刊行した『関東大震災と治安回顧』[では「数百名の村民は忽ち武器を手にして」「殺到し、売薬行商団を包囲し、『朝鮮人を打ち殺せ』と喧囂(けんごう)し、行商団員が百方言葉を尽くして『日本人である』と弁解したにも拘らず」「平静を失った群衆は」「荒縄で縛り上げ」「鳶口(とびくち)、棍棒を振って殴打暴行し、遂には『利根川に投げ込んで仕舞え』と怒号し」などと描写されている。
さらに、関東大震災の当日・翌日には、関東各地の警察が「朝鮮人に気をつけよ」「夜襲がある」などと、官の側から流言蜚語をまき散らしたとされる[16]結果、福田村周辺の自警団も「異常な事態に興奮」していたと考えられる。
当時の防犯ポスターには「あやしい行商人を見たら警察へ連絡せよ・千葉県警」と書かれているものもあり、貧しそうな行商人に対する蔑視や差別の構造もあったと考えられる。虐殺に走った自警団員の中に「どうせ、どこから来たのかも知れぬ行商人ではないか」という意識が働いた者もいたと推測される。
被害者15人(内、2人妊婦、2人子供)
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