松本市の丸の内中学校裏にある、貞享3年(1686)に起きた百姓一揆の犠牲者を祀った塚。
昭和25年(1950)10月16日、丸の内中学校を建設中に大量の人骨が発掘され、建設作業員の中に奇病に罹る人や怪我人が続出したため、この場所に塚を建てて供養したという。
見つかった人骨は合計18体であり、当時の歴史家や研究者により、この人骨が貞享騒動の犠牲者のものであり、この場所が松本藩の臨時の刑場跡であったということが判明。
貞享3年(1686)、安曇平の作柄は不作であったにもかかわらず、松本藩は米一俵あたりの年貢を3斗から3斗5升に引き上げた。これに対して多田加助を中心とする百姓たちは、奉行所に百姓の窮状を訴える訴状を提出することにした。訴状を提出する10月14日には、1万人にもおよぶ百姓が松本城周辺に押し寄せたという。
この事態を重く見た城代家老は、参勤交代で不在だった藩主に代わって、百姓たちの要求を受け入れ、年貢減免の回答書を出したが、その後一転して約束を反故にして、一揆の首謀者の捕縛に動き出した。翌月の11月22日、多田加助とその一族はこの場所(勢高刑場)で処刑された。多田加助は処刑される際に松本城を睨みつけ、その瞬間に天守閣が傾いたと言われている。
このように松本藩は一方的に約束を破棄し、百姓たちをだまし討ちにしたため、殺された百姓たちの恨みは深く、今でもこの塚の周囲には百姓たちの怨念が渦巻いている。
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