天正8年(1580年)に起こった長和田・長瀬川の戦い(通称・長和田の十三日崩れ)にて南條軍の大将として参戦した南條元秋は、吉川元春軍の先陣を務める杉原盛重の軍勢と激しく戦ったが、敵方の猛攻により元秋は深手を負い度々落馬した為に、近くの辻堂で家臣に介抱されていたが、南條氏の重臣である津村基信(津村長門)が心配して辻堂に来たのを、家臣は敵の襲撃だと勘違いをし、自らの助命の為に迷わず元秋の首を斬り殺害した。その事に津村基信は激怒し、その家臣は処刑された。家臣に殺害され非業の死を遂げた元秋の遺恨は根深く、辻堂の傍らにあった椎の大木に元秋の怨霊が宿り、地元住民は元秋の怨霊に悩まされた為、椎の大木の傍らに五輪塔を建て供養したが、この椎の大木は、「南條元秋・呪いの木」とも呼ばれ、地元住民から大変に恐れられた。椎の大木をみだりに荒らしたり、切ろうとしたり、傷つけたりする者には必ず祟りがあると伝承されていたが、平成12年(2000年)に土地を所有する寺院の住職の意向により県外業者に依頼して椎の木は伐採された。その後、伐採を指示した住職は病に倒れ急死した。現在は羽衣石南條顕彰会が建立した「南条元秋公終焉の地」の石碑がある。