日下新池(くさかしんいけ)、または単に日下池とも呼ばれる東大阪市のため池。この池周辺は大正時代に遊園地が建設され、その後遊園地跡が廃業すると、跡地が結核病棟として利用された歴史がある。
大正時代に大阪電気軌道の日下駅(後に鷲尾駅→さらに孔舎衛坂駅と改名される)が開設されると、この池周辺は観光地として開発され、大正4年(1915)に日下遊園地が開設された。
この当時、池は天女ヶ池と呼ばれ、池の北側に茶色い洋館の「日下温泉」と料亭旅館の「銀水」、東側にも料亭旅館の「永楽館」が建てられた。日下温泉の舞台では日本少女歌劇の公演、落語の寄席、奇術などが披露された。また園内には子供向けのミニ動物園もあったらしい。
しかしその後、生駒山上遊園地などが開園すると客足は遠のき、旅館や遊園地は閉業した。そして昭和12年(1937)、日下温泉の建物は改築され結核療養施設「孔舎衙健康道場(くさかけんこうどうじょう)」として利用されることになった。この療養所は戦中の物資不足で昭和17年(1942)の秋に閉鎖され、その歴史はわずか5年程しかなかったものの、患者は全国から押し寄せ最盛期には100名近くもの患者を収容していた。
この療養所は文豪・太宰治の小説『パンドラの匣(はこ)』の舞台としても知られている。なぜ太宰の作品にこの施設が登場するかと言うと、ここで療養していた患者の1人に太宰ファンの青年がいて、この青年と太宰治は文通による交流があったそうだ。そしてこの青年の死後、全12冊の病床日記の遺贈を受け、それをもとに書いたのが『パンドラの匣』という訳だ。
ちなみにこの青年の直接の死因は結核ではない。彼は1941年に結核から回復して健康道場を退院している。しかしその後結核が再発し、将来を悲観して昭和18年(1943) 5月13日、カルモチンを服用して自殺したのだった。享年23歳。
この青年は一時的とはいえ回復したが、当時結核に対する有効な治療薬は無く、健康道場の患者の中には自分の死期を悟って池に身を投げる者もいたという。このため、今でも池のほとりの自殺者の霊がさまよっていると言われている。
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