廃線となった日田彦山線(ひたひこさんせん)の彦山駅から1kmほど南に行った場所にあった踏切。終戦後すぐにこの踏切近くで「二又トンネル爆発事故」という大事故が起きたため、爆発踏切と名付けられた。
日田彦山線は2017年7月の九州北部豪雨による被害を受けて不通となり、予算の都合上復旧を断念し、そのまま廃線となった。ただし彦山駅~宝珠山駅はBRT化(Bus rapid transit:バス専用レーンを使った輸送システム)により復旧することが決まり、すでに工事が始まっている。そのため現在レールは撤去され、踏切があった形跡は残っていない。
ところでなぜ爆発が起きたかと言うと、その話は戦時中にさかのぼる。当時日田彦山線は全線開通していなかったため、旧日本軍はこの踏切と彦山駅の中間に位置する二又トンネルに火薬を保管していた。さて、その後終戦となり、保管していた火薬をどうするのかという話になったが、アメリカ進駐軍は火薬を焼却処理することにした。
1945年11月12日、連合軍のH・エルトン・ユーイング少尉ら一行は、警察官立ち合いのもと試験的に爆薬に火をつけ、爆発しないことを確認した上で二又トンネル内の火薬に点火した。しかし二又トンネル内の火薬は段違いに量が多かった。その量は何と532トン!信管のない少量の火薬を燃やすのと、トンネル内で大量の火薬を蒸し焼きにするのとでは訳が違ったのだ。
火薬に点火してから約2時間後、500トン以上に及ぶ火薬は大爆発を起こしてトンネルを山もろとも吹き飛ばした。この時の爆発音は60km以上離れた福岡市内でも聞こえ、爆心地近くの人には「大きすぎて聞こえなかった」とも言われている。
爆発による被害は死者147人、負傷者149人、家屋の被災135戸に上った。またこの事故は進駐軍の不手際(ふてぎわ)ゆえの事故だったため、報道規制がかけられた事件としても知られる。大事故であり、本来は全国紙に載るような事件だが、報道されたのは福岡の地元紙『西日本新聞』だけで、当時九州以外でこの事故を知る人はほとんどいなかったという。
この場所はどちらかと言うと歴史的なスポットとして知られるが、やはりこれだけの死傷者が出た事故なので、心霊スポットとして紹介されることもある。
どんな幽霊が出ましたか?
少年0
男性0
老爺0
動物0
少女1
女性0
老婆1
正体不明1
↑ボタンをタップすると投票できます(3回まで)