田峯城(だみねじょう)は、戦国時代に奥三河を領地としていた菅沼氏の居城。この時代、三河周辺は今川氏、武田氏、織田氏の有力大名がせめぎあい、過去のいきさつから田峯城内でも武田派と徳川派に分かれていたようだ。
天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田軍が大敗した後、武田方として出陣していた城主の菅沼定忠は、武田勝頼を伴って帰還。田峯城城内で武田勝頼を匿(かくま)おうとしたが、徳川派である叔父の菅沼定直や家老・今泉道善に入城を拒否される。
やむなく定忠一行はこれより北の武節城まで落ち延びる。このことに恨みを抱いていた城主の定忠は、翌年の天正4年の旧暦7月14日(8月18日)、未明に田峯城を襲撃して老若男女を問わず、城内にいた全員を虐殺した。
現在首塚がある場所は、殺害された徳川派96人の首が晒された場所と伝えらえれており、特に首謀者の今泉道善は鋸(のこぎり)挽きの刑で首を落とされたと伝えられている。
この場所は今現在もかなり強い怨念がただよっていて、遊び半分で行くと祟られると恐れられている。
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